TNKkunのサマリーブログ

読んだ本の要約や感想をまとめようと思う。

 

政治学

第一章 民主政治の起源

(1) 古代の民主政治

 政治学(politics)然り民主政治(democracy)然り、古代ギリシア政治学上の重要な概念の語源を多く持つ。デモクラシー、すなわち民主主義という語訳からしてこれは抽象的な理念と認識されるが、古代ギリシアにおいてはデーモス(民衆)とクラトス(支配)の合成語であり、理念と具体的な制度との二つの特徴を備えたものである。

 民主政治は直接制と間接制とに区分されるが、古代ギリシアでは直接民主制を意味し、18世紀においても常識とされていた(…モンテスキュー)。国民の選挙で選ばれた代表者を通した政治、代表民主制が政治形態としての地位を獲得したのは近代革命以降からである。

 古代における直接民主制の例として都市国家(ポリス)の一つであるアテネが挙げられる。そこでは「市民」の全て(女性や奴隷、外国人を除く)が平等に参政権(政治に参加できる権利)を持つ世界であり、独裁や少数支配が当然である時代においては、一部の特権階級を有する市民間での平等な政治として尊重されていた。
 また古代ギリシアでは月4回開かれる「民会」なる最高の議決機関にて市民全員が集会し、戦争や外交、財政について審議した。現代の専門家の支配とは異なる、統治者と被治者との一致が前提であった。
 さらに民主政治はポリスへの義務、遵法精神、自己犠牲といった公共精神と市民の団結によって支えられており、それは排他的かつ戦争に深く関わるが故に市民にとって高い価値を備えていた。
 そして共同体が小規模であるために、濃密な政治参加が可能であったという特徴を持つ(アテネの面積は神奈川県全域を上回る程度)。政治と言論の親密さを担保した民会の役割は大きいと思われる。

 …続く!

 

 

現代日本経済の前に

ゼミでの活動内容は主に戦後日本経済を学ぶ。現代経済の構造を理解するために、歴史的な文脈を重点的に学習するのが狙いかもしれない。まずは終戦(1945年)辺りの流れを大まかに捉えてみる。

戦後国際政治の歩み
自由主義陣営 共産主義陣営 第三世界
トルーマン・ドクトリン
(封じ込め政策)
コミンフォルム
ベルリン封鎖
 
大韓民国成立 朝鮮民主主義人民共和国成立 イスラエル建国宣言
第一次中東戦争
北大西洋条約機構(NATO)成立 経済相互援助会議(COMMECON)
中華人民共和国成立
 
     

[1、占領下での戦後改革と資本主義的復興]

日本経済は戦争と共に発展した。日清戦争(1894)から日露戦争(1904)までの期間に産業革命を遂げた日本は第一次世界大戦(1914)での好景気を以て列強諸国の仲間入りを果たし、債権国へと変化した。しかし順調から一転、戦後恐慌や震災恐慌、昭和の金融恐慌や世界恐慌(20年代)による疲れからか、不幸にも黒塗りの時代に追突してしまう...。世界が恐慌に見舞われる中、列強諸国は自国領や植民地を利用した政策を実施する(アメリカでのニューディール政策、フランスやイギリスなどでのブロック経済)。しかし恐慌に対処できるか否かの国力の格差は独裁政治の誕生に一役買ってしまう。イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党、ドイツではヒトラー率いるナチス(労働者党)によるファシスト(独裁政権)が台頭したことで、世界情勢は大きく揺れる。すなわち第二次世界大戦。この頃日本は日中戦争の長期化で大変だったので、ポーランドからロシア、終にはフランスにまで喧嘩を吹っ掛けるドイツの勢いを見込み、そこにイタリアを加えて日独伊三国同盟(1940)を結ぶ。さあ後はこの同盟国=敗戦国と暗記することで、ようやく話を先に進められる。

[2、インフレ是正と朝鮮特需、高度経済成長へ]

太平洋戦争が終わり(1945)、GHQが初めに占領下の日本で実施したのは非軍事化民主化政策である。持株会社整理委員会を中心として以下の政策が実施された。

国富の1/4を失った日本は、石炭と鉄鋼中心の傾斜生産方式による復興を採用。しかし復興資金源のほとんどが金融債権だったのために、復興開始の半年後にはハイパーインフレを誘発した(貨幣数量説、貨幣供給量の増加=物価の上昇)。1948年になると極東情勢が変化。アメリカはこれに伴い日本の経済自立とインフレ抑制のための経済安定9原則を指令。その中心は単一為替レート(1ドル=360円)と超均衡財政の設立であるが(ドッジ・ライン.1949)、このデフレ政策は日本の中小企業を倒産に追い込んだ(安定恐慌)。

デフレ不況から一転、日本経済再建のファクターである朝鮮戦争(1950~1953)とそれに伴う特需(...アメリカ軍が日本で買い物=ドル収入)が登場する。同時期にサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が調印されたこと、日本がIMFに加盟したことも留意。神武景気で経済水準が戦前を上回るも(もはや戦後ではない『経済白書』.1956)、国際収支の赤字化による外貨不足に陥って以降はなべ底不況が到来した。外貨不足の中でも特需が有効利用された。

ここから高度経済成長期に突入する。当時の首相、池田勇人が発表した国民所得倍増計画(1960)は積極的な公共投資で民間設備投資を誘発したことで公約を達成した。池田内閣以降の産業保護・育成政策と高い貯蓄率を背景にした企業の積極的な設備投資は経済成長に大きく貢献した。

高度経済成長の要因
政府 湾港、道路など、インフラ整備への公共投資
家計 農村→都市間の労働人口移動
ベビーブームが背景の高い人口増加率
耐久消費財の消費
高い貯蓄率
企業 民間設備投資の拡大
安価で高品質な耐久消費財の大量生産
海外技術導入とその改良→生産性向上
海外要因 安い原油
単一為替

高度経済成長(~1973)は第4次中東戦争原油価格引き上げ(OPEC石油戦略)を契機に終わった(第一次石油危機.1973)。石油価格高騰に際して日本企業は生産の効率化に乗り出す。後の第二次石油危機(1979)以降に効率化傾向はより堅実となる。

[3、プラザ合意とバブル経済]

80年代と言えば小さな政府政策が主流となる時期。アメリカは財政赤字(減税と社会保障費、軍事費)と貿易赤字(輸入増)双子の赤字で苦しんでいた。レーガン政権は福祉国家から小さな政府へと転換(レーガノミクス)。

日本の中曽根政権も小さな政府を開始。双子の赤字による日米貿易摩擦。アメリカからの圧力で高金利、円安ドル高が進行したが、円安によって輸出増となり、結果的に貿易黒字が増加する結果に。ついには日本、西ドイツ、フランス、イギリスの協調介入によるプラザ合意(1985)でドル高是正、円高誘導が開始。プラザ合意による日本への影響は以下の通り。

  • 円高不況(...1ドル240円台→1ドル120円台へ)
  • 輸出減少(...企業の生産拠点が海外へ→産業の空洞化)
  • 国内の設備投資、労働需要減少

日本は円高に対して様々な政策を開始、内需主導型経済へ移行。元日銀総裁前川春雄らの研究会が発表した前川レポート(1986)は後の日本経済の基盤となった。その内容は以下の通り。

    1. 輸出主導から内需主導へ
    2. 製造業からサービス業へ
    3. 規制緩和
    4. 金融の自由化、国際化
    5. 国際協調

など。円高不況に対して日本は円売り・ドル買いを行うとともに、公定歩合を2.5%に引き上げる超低金利政策などの金融緩和政策を実施。その結果、通貨供給量が増大し過剰流動性を招いた。金利による通貨供給量の増大で資金の流れが流動的になると金あまり現象を招き、それが株式や土地などの資産への投機を促した(=不動産価格、株価高騰)。また、ドル買いで得た外貨は海外直接投資に振り向けられ、日本の対外資産も増加した。つまりバブル景気の実態は、過度な投機熱による資産価格の高騰が原因である。

[4、バブル崩壊失われた10年]

バブル景気で気分が浮ついたのも束の間、加熱した投機欲はついに危険な領域に突入する。プラザ合意でドル高を是正したかと思えば、今度は加速するドルの下落に歯止めをかけるために、先進7か国による協調介入がなされた(ルーブル合意.1987)。米国は金利(公定歩合)を引き上げ、各国は引き下げての協調だったが双子の赤字は拡大を続け、ついにニューヨーク株式市場で株価が大暴落した(ブラックマンデー)。日欧米の足並みが崩れたために赤字拡大が進行したわけだが、株価の暴落後も日本は低金利策を続けてしまった。

平成不況までの流れ
1989.5月 金利引き上げへ(公定歩合2.5%→3.25%)
1989.12月 土地基本法の成立
土地は投機的取引の対象にしてはいけない
1990.4月 土地関連融資の総量規制

日本の90年代は株価の暴落と長い不況の幕開けであった。企業は適正な投資水準に戻すために過剰な設備と人員を整理(リストラ)した。金融機関も資産インフレの後遺症で多額の不良債権を抱え、貸し渋りに走った。その結果、新たな設備投資は呼び出されず、将来への不安から消費支出も漸減した。

以上で戦後の現代日本経済についてのおさらいを終える。更新予定